中上健次についてのメモ

また記憶で書きます。

中上は『熊野集』での私小説的手法を捨てて『地の果て 至上の時』で「本格小説」へ向かう。同時代、先輩である大江や古井が私小説に向かったのとは異なり。意識的?

『岬』『枯木灘』とは異なり「フィクションとしての秋幸」は『地の果て』では機能しない。一時「路地」を離れ帰郷した秋幸は中上自身と重なる。
それを避けるためか視点は秋幸を離れる。冒頭では秋幸を外側から視点が描写する。

その後は秋幸が登場するパートでは彼の視点と叙述の視点は近接しているが重なってはおらず、秋幸が本当に龍造を殺そうと思っているのかどうかは内面描写されない。

法月綸太郎も指摘しているように、これはハードボイルド=PI小説的であり、プロットに還元してしまえば、本作は、ある男Aがある男Bの懐に入り後者を調査するが決定的な犯罪を明らかにできず、そのため殺す事もできずにいたところ、Bが自死を遂げてしまうという犯罪小説的な物語になる。

『奇蹟』でのイクオ=郁男の内面描写は『異族』での夏羽を引き継いでいる。