村上春樹「ある編集者の生と死――安原顯氏のこと」(「文芸春秋」最新号掲載)

余波で、このブログの過去の記事にかなりアクセスがあったようなのだけど、やっと今日、立ち読みしてきた。
「生原稿流出問題」へのコメントとしては長すぎ、安原氏という人物についての文章としては短すぎる、という感じ。
安原氏の仕事に対する批評としては「nobody」第8号(特集:雑誌ってつまらない)の黒岩幹子の文章が良いので、興味がある方はチェックを。

私などは評価を下せるほど彼の仕事に触れているわけではないのだけど、ちょっと出版産業の側面から考えたことを。
実は私が再版等の出版流通の仕組みについて初めて知ったのが安原氏が中央公論を辞めて、編集長をつとめた「リテレール」の編集後記でのことだった。
そして安原氏は、それを自分が「初めて知ったこと」として書いていたのである。既に出版に数十年以上関わっていた人物がである。
もちろん編集と営業の仕事は違う。出版を含めたメディアでは制作部門が、営業部門を見下すというのが他の製造業よりも激しいかもしれないけど、それでも、まあ「良くあること」かもしれない。
思うのは「知らなければいけない立場」に立ったのが初めてだったということじゃないか、ということだ。つまり編集長になったのが初めてだったからじゃないか、と。

「リテレール」というのは雑誌の編集長としての初めての仕事と考えて良いと思う。それ以前に単行本の編集の仕事もしていたようだし、別冊のたぐいもやったことがあるのかもしれないけど、継続的に発行する雑誌の編集長は初だった、と言っていいように思う。
そして編集長というのは村上春樹が言う「プロデューサー」だけじゃなくてエグゼクティブ・プロデューサーを兼ねる仕事なのだ。

そして明らかに、その初めての仕事は「失敗」だった。廃刊になってしまったという営業面だけじゃなくて、内容についても明らかに「最高の評価」は与えられないものだった。

ここからは思い切り推測だけれども、その苦境は彼の性格の悪い部分を増幅してしまったんじゃないかと思う。村上春樹は「何で手のひらを返したように罵倒されるようになったのか判らない」と書いているけれども、おそらくは単純に、そういう苦しい時に仕事を断られた恨みなんじゃないか(「ねじまき鳥クロニクル」を書いていた頃だから協力しようにも無理だっただろう)。

もう一つ、もしかしたら安原氏は編集者としての才能は「目利き」である、という一点にのみあったのかもしれない。彼がベスト企画を好んでいたのも、そういう「目利きの性」のようなものなんじゃないか。
そして、その能力を駆使して見つけた書き手自らが企画を立てて協力したときには雑誌として面白いコンテンツを作ることはできたのかもしれないが、編集長としてイニシアティブをとって企画を立てる能力は、あまり持ち合わせていなかったのかもしれない。明らかに「リテレール」は企画力として低かった。
かつて「ヒッチコック・マガジン日本版」の編集長だった小林信彦は「雑誌は編集長の一人芸」だと書いている。