田代真「感覚記憶と集団抗争時代劇――第4回京都映画祭報告」

http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN8/tashiro-kyotofes.html

全編を喪と空虚と解体が支配する『忍者狩り』(64)は、幕府の取り潰しにあった小藩の城跡の空虚な石垣の上にたたずむ浪人=近衛のシーンから始まる。時代劇映画が前提としてきたトポス=城がもはや存在しないのだ。(…)天守閣の張り出し台は崩落し、幼君を守ろうとした家臣ともども中庭の白砂の上に無残な姿をさらす。君主の葬儀のさなか、密室となった歴代君主墓所での死闘の場面で殺陣の名人近衛に課されるのは、闇と閉塞の不自由さである。確かにエンディングには守られた城の姿が映し出されるのだが、それは、ともに闘って命を落とした同志の浪人たちの墓標越しの、近衛の主観ショットを通じてのことにすぎない。さらに上述の公式カタログ所載の山根貞夫氏による山内監督へのインタヴューによれば、この場面には、この藩がやはり数年後に取り潰しにあったことを告げるタイトルが入れられたが、撮影所長によって削除されたとのことである。