ドゥルーズによるセリ・ノワール論

について密室系の9/22あたりhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~s-narita/new/what.s03.9.htmlでまとめられている。
私も先日立ち読みしたんだけど本当、訳が…。複数で訳している論文集なんだけど他の収録分も不安なので買ってないです。
さて、これについては「早稲田文学」2002年7月号のヌーヴォー・ロマン特集での浅田彰×野崎歓の対談でも触れられている。ちょっと長く引用。

野崎 あのなかで、ドゥルーズの最初期の文章として、ロマン・ノワールについて書いた「セリ・ノワールの哲学」(一九六六年)というのがあります。たとえばエシュノーズがやっていることなんかは、若きドゥルーズが指摘していた現実のリアルなパロディとしてのロマン・ノワールという方向性を徹底したものだと言えますね。
浅田 映画だとそのようなノワールの可能性を前衛的に展開することはわりに普通にやられているわけで、文学がやっとそれに追いついたということかな。日本だと、アメリカ風のSFがどんどん書かれ、そのあとで筒井康隆みたいな人が出てくる。彼はある意味でヌーヴォー・ロマンの方法をリテラルに受けとめて実践したのではないか。この場合は、もともとわかりやすい筋を持っていたSFを、ヌーヴォー・ロマン化することで実験的にしたわけですよ。

その後も面白いんだけど後略。バックナンバーをお求め下さい(笑)。
[文学がやっと追いついた]というのは、文脈的に「フランスでは」ということだろう。
ジャン・エシュノーズは、ちょっと読んでみたい(とりあえず抄訳はこの号に載っているんだけど)。