ここで、またまた東氏の「筒井-春樹問題」

になるんですが、彼が「KLUSTER」で語っているのは「自然主義リアリズムVSまんが・アニメ的リアリズム」という文脈なんだけれども、これは、ちょっと単純すぎると言うか…。
私などの「遅れた世代」からすると、筒井って全然、サブカルじゃないんですよね。というか小林信彦もそうなんだけど、メイン/サブというのを崩してくれたのが彼らなんですね。
だから筒井からヘミングウェイカフカを読んだりするのは当然だし、中学三年で小林信彦の『小説世界のロビンソン』を読んで決定的な影響を受けて、高校に入ってからは19世紀小説を読んでいったというかたちで。その傍らで、ミステリも読むし、SFも数少ないけど読む。
別にアニメを女子に否定されて文学青年化して行ったというようなアイデンティティ・クライシスは私にはないんです(笑)。
単純にアニメがつまらなく感じられていたし、筒井とか小林の方が笑えるし、面白い。ディケンズとかドストエフスキーとかトルストイとか、日本的でないリアリズムのスタンダードが確固としてあって、もうそれは畏れるべきものなわけで。
村上春樹という人もそういうスタンダードをやろうとした人だと思うんですね。もちろん、そこにはチャンドラーとかスティーブン・キングとかが入ってくるんですけど、それもアメリカ文学のスタンダードの流れの中にあるわけで。

村上春樹について言えば、それ以上に重要なのは自意識というかナルシシズムの問題だと思っていて、そこに高校時代の私はドップリと浸かっていました。
まあ、昔で言うと太宰みたいな読まれ方ですかね。
それを解毒したが柄谷行人の春樹論だったという流れで。
今、「私」という一人称を使っているのも、「僕」という一人称を使うのが非常に気恥ずかしくなってしまったからで。口語では「僕」なんですけどね。

多分、そういう「僕」がエンターテインメント方面に移っていったりしたんだろうなあ。避けてるんで、はっきりとは判らないけど。