佐藤友哉『水没ピアノ』(講談社ノベルス)を読んだ。

これは、かなりミステリ。古谷利裕氏の偽日記http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.html(1月8日)の記述にあるように、あるSF的設定もあるのだけど(これはネタバレなんで直言は避けます)。
その上で××と○○が同じというのは、なかなか面白いプロットだとは思いながらも上手く行っていないのは否めない。ここは□□も同じにするとかまで行って、よりSF的にしないと驚けないか。
どちらにしても完全にSF向きの人でミステリを書こうとしても駄目だというのは三作読んだ結論。

もう少しメモって置く。
前作までは三人称と一人称が混在していたのだけど、本作はほぼ完全に(複数人物の)一人称。これは今までも、その方が良かったのにも関わらず、技量的に無理だったところだと思う。まあ、今回も技量は伴っていないのだけど。
フリッカー式』は女性の視点が三人称で、これは、やっぱり「女性の視点から書けなかった」ってことだろうし、『エナメルを塗った魂の比重』が逆に二人の女性の視点を一人称にしてのはリベンジマッチってことで。
今回は全て男性の視点なので、まあ、その点は書きやすかったのか。
文体も段落分けを少なくしたり、硬めに書こうとしているのは目に見えているのだけれど、技量はさほど上がっていないので、逆に読みにくくなっている。

更にメモ。
個人的な考えを書くとSFっていうのは「複数の世界」を描くものだと思う。「未来」を描くということは、直接でなくても「未来」を通して「現在/過去」を描くことになるから。
かたやミステリというのは「一つの世界」を描くもの。「謎」として提示されるものは「複数の世界」であっても結末では「一つの世界」を提示することになる。
で、前作までの「馬鹿げた世界」というのは「複数の世界」、言ってみれば「そんな馬鹿な、でも不思議とリアルだ」という感じだったのが、今回は「まあ、そうだったら、そういうのもアリだよね」というところ、つまり「一つの世界」に収まっている。つまり「不思議とリアル」ではなくて「リアリティ」の側についてしてまっている、という感じ。
上手く書けないのだけど、まあ「設定としてのSF」としてオリジナリティがないというか。でもミステリとしてもオリジナリティが希薄というか。

更に前作までと比較すると。
以前は結末を受けれるためには読者は「狂わなければいけなかった」というところがある。とても正気じゃ受け入れられない「馬鹿」な部分。
それは登場人物が「壊れている=狂っている」のだけれど、読者も「壊れ」なきゃいけなかった。「壊れない」場合は、受け入れられない駄作となる。
本作には、特にそういうところはない。