西武VS東急(03/23/2003から転載)

http://nauboo.cool.ne.jp/dairy200303.html#0320m
かなり反省点があって書き直そうと思っていたのだけど、ここで問題点を挙げるという方が、まず楽だし、客観性も出るかな、と言うことで書いてみる。
松谷加平がnaubooにつっこむ、という感じで。

前段は、まあ私事だから問題はないのだけど。

まあ〈渋谷〉というのは昭和50年代に西武セゾン・グループが作った文化/生活圏なわけ。そこら辺のことは浅田彰の「セゾン文化を継ぐ者は誰か」参照。

というところが、まず問題で。
http://d.hatena.ne.jp/kzroom/20030321#p2でも反応いただいたように、東急の重要性というのが十分に把握できてなかったです。
これは私が生まれた場所(足立区)と時代(1973(昭和48)年)の制約が大きいわけで、渋谷が<西武的なもの>として現れてしまうという部分があります。

そこで実家から小林信彦『私説東京繁盛記』(中央公論社1984 現ちくま文庫ISBN:4480037225てきて読み返しました。
そこから箇条書きで抜き出すと

  • 戦前は郊外から中央へのターミナル駅だった。
  • 空襲でほとんどが焼けてしまい、そこに闇市ができた。
  • それから昭和40年代半ばまでは特徴のない盛り場だった。
  • かろうじて大きな映画館がある東急文化会館が中心と言えた。http://www.st.rim.or.jp/~tokyo/shibuya/kenkyu/bunkakaikan.html
  • 道路が駅を中心に放射状に広がり散歩がしにくい(これは方向音痴の私には身につまされる)。
  • 昭和40年代、東急本店、西武・パルコの開業で大きく変貌した。
  • 西武の進出に対抗して東急ハンズ、109が出来た。

本書から以外も、このへんのことの資料はあるのですが、とりあえず、このくらいで。
この後は下町両国生まれの筆者による<西武的なもの>への辛らつな意見があったりするんだけど、それも割愛。

至極簡単にまとめてしまうと「東急のシマだったところに西武が侵出してきて盛り上がった」という感じでしょうか。

東急が古層で、西武が表層、というのとも、ちょっと違うか。
文化村通り、センター街、井の頭(ハンズ)通り方面が東急で、公園通り方面が西武、とこれも放射状に分かれているんですね。
HMVがセンター街で、WAVEが公園通り(ちなみに私一回行っただけだなあ)、タワーが更に東のファイアーストリート(っていうですか知らなかった)というのが現在の配置。以前はHMVが文化村通りで、タワーがハンズの奥。
所謂「渋谷系」発祥の地はHMVだって言う人がいます。中古レコード屋も東急方面に多いですね。考えてみると。だから、タワーはアメリカルーツ系のコーナーがあるから寄らなきゃ行けないんだけど面倒だったり。

で<西武的なもの>というのは80年代に(というか昭和50年代から昭和末期)に一時的に盛り上がっていたのだけど、基本は東急ということでしょうか。
ただ、どうしても渋谷=西武という図式があるのは、まあ広告が派手だから、ってことなのか。

考えてみるとピチカートとコーネリアス=小山田への違和感というのもCMが基本になっていたのかも。オザケンはCM出てもヘナチョコな感じでしたから。

(予想通り、長くなって途中で力尽きる。またの機会)。