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03/20/2003 thu
極私的〈渋谷系〉再考

昨日3月19日、東武伊勢崎線半蔵門線がつながった。これで私は一本で渋谷へ行けることになった。厳密に言うと最寄り駅からだと一回、準急に乗り換えないければならないのだけど。
ちょっと感慨深いです。

生まれも育ちも足立区。北千住ならまだ、ぎりぎり下町とも言えるが、私が生まれる前は野原や田んぼや畑ばかりだったようなところだ。

高校は上野にある都立校(という書き方だと二つあるので匿名性が保てるな)、行動範囲も秋葉原御茶ノ水だから下町文化圏。
大学は埼玉だから渋谷には、ほとんど縁がなかった。いや浦和とかの方が逆に渋谷には出やすいんだけど。

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まあ〈渋谷〉というのは昭和50年代に西武セゾン・グループが作った文化/生活圏なわけ。そこら辺のことは浅田彰「セゾン文化を継ぐ者は誰か」参照。

[世界のどこよりも簡単に前衛的な美術書やレコード/CDを手に入れることができた]ということで、その音楽的な結果として所謂〈渋谷系〉といいう流れが現れた、と言って良いと思う。

まあ、こういうレッテルの常として"まとめて売るための呼称"なわけだけれども、例えば〈ビジュアル系〉などと比べれば呼ばれる方からの反発は少なかったのでは?

でも前記のような出自の私が持った反発というのは、結構、大きかった。
いや"嫌い"というのとは違うんだな。強烈に馴染めない感じ、と言ったら良いか。
大体、"文化"が違うのですね。倫理的観点からすると持て囃してはいけないわけです。
東京以外に住んでる人なら、もっと気楽だろうけど。

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フリッパーズ・ギターが「恋とマシンガン」でブレイクしたのが1990年の頭で高校一年生の時。この時は嫌いじゃないし、拒否感もなかったのだけど、って知識が不足してただけか。
池袋のケーキ屋に生まれた山下達郎が彼らに対する強烈な違和感をインタビューで口にしているのを読んでもピンと来なかったし。

どうにも駄目だったのが1993年「スウィート・ソウル・レビュー」で知ったピチカート・ファイブ。この曲は小山田圭吾のプロデュース。
これを当時、かつての相方、小沢健二が辛辣に評していた記憶がある。まあ、感情的なところからかもしれないけど、個人的にも非常に頷けたところもあり。

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"ソウル"ということで言うとオザケンにはあるけど、ピチカート/小山田にない、というのが私の偏見。
後者は「俺らには偽物のソウルしかできない」という諦めを屈折させ、それによってある種の"スタイル"を作っているように私には感じられてしまう(ビートルズが『ラバー・ソウル』とタイトルを付けたのは屈折ではなくユーモア)。とにかく野宮真貴の作為的に滑舌と歯切れの良いヴォーカルが駄目(でもソロとかを聞いてると、そうでもないのは、結局、小西が駄目だってことか?)。
それよりは「できないかもしれないけど、やっちゃえ」という感じのオザケンの方が共感できる。『犬は吠えるがキャラバンは進む』と『LIFE』は、もう大好き。まあ彼我を比べれば、こちらも"階級"は違うんだけど。
ただ明らかに彼は〈渋谷系〉という囲い込みを逃れようとしていたと思う。実際に小山田よりも高い一般性を獲得したし。

それから元ピチカートの田島貴男によるオリジナル・ラブは当時から好きでした。彼の場合は達郎に系譜的にはつながっている部分はあるから。

とは言え、まあ純粋に音楽としてピチカートや小山田=コーネリアスが優れているのは判るんですよね。『point』はスタイルを突き詰めていった結果、虚飾の無い境地に至っている傑作だし。これは好きだなあ。

でも、これは階級闘争というか、文化闘争というか、思想闘争というか、これからも続きそうなんだけど。路線がつながって解消されるか?それほど簡単でもないか。