「はてなmixi日記晒し1(90年代のこととかネットのこととか)」、「はてなmixi日記晒し2(90年代のこととかサブカルとか) 」

えー話についていけてないんで、以下、適当に触発されて考えたこと。
象徴界(Cラカン)の機能不全(C東浩紀?)」っていうキーワードは、ちょっと眉に唾をつけておかないといけないんじゃないかと思ってる。斎藤環が言うように、それだとみんな精神病になっちゃうから。
それよりも「メタ言語は存在しない(Cラカン)」というのを考えた方がいいじゃないか、と思うんだけど『エクリ』はマトモに読めないし『セミネール』も追いついていけてないんで…『批評空間』第一期7号の浅田彰ラカンジジェクの余白に」を元に浅〜く考えているだけなんだけど。
柄谷は春樹を題材にロマンティック・アイロニーからアイロニーが抜けると単なるロマンスになってしまうということを80年代の終りに書いていた。
個人的に吃驚したのが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を再読したらモロ「セカイ系」で、「初期三部作の時代性への距離感が無くなるとこうなってしまうのか」なんて思ったり。
メタ言語は存在しない」というのは象徴秩序に亀裂をもたらす、ってことになるようなんだけど、まあアイロニーじゃやっていけなくなる、ってことでもあるのかな。
だからオウムがメタ/アイロニーだと思ったらベタだったとか、そういう「現実」が95年ぐらい露呈してくるわけだけど、それを覆うのに象徴界よりも想像界の方が強くなったと言うか。
象徴秩序の方は今までは規律=しつけで人間=主体を作っていたけど、今じゃテクノロジーで管理しておけば反社会的な活動は抑制できる、けど脱社会化しちゃうものたちが増える、ってことか。