ポスト・ムラカミの中上文学(その二)

昨日の続き。
仲俣暁生氏は1980〜1995年の時期を「もう一つの十五年戦争」と呼んでいる。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20031208#1070848694
これはグローバルな経済戦争に参戦していた、ということと捉えて良いだろうけれども、その上で言うと中上は明らかに戦死者であったと思います。
確かに死因はガンでしたが、ほとんど過労死みたいなもので仕事のし過ぎが死期を早めてしまったのは指摘されているところです。
中上の病歴を見ると80年にアルコール性肝炎、85年に急性B型肝炎となっていて、病気の性質を見ると、どういう生活をしていたか判るところで、結局は日本に住んでいたがいけなかったんじゃないか、と思えてしまいます。

興味深いのは79年にアメリカに家族と共に移住を試みているところで、1年間の予定が失敗して四ヶ月ほどで帰国している。確か記憶では生活費が限界になったことが原因だったと思うのだけど、そうすると、円安の時期での海外生活は時期尚早だったのだろうか。対して村上春樹は80年代後半から90年代前半まで円高の時期に日本を離れて海外で生活するという計画性の良さを見せている。ここには村上に子供がいないということも関係するか。

アメリカから帰国した中上は東京には戻らず生家近くに一時、居を移していて(多分、小平の家は1年の期限で人に貸していたのではないか)、この時期のことは『熊野集』で私小説的に描かれ、『地の果て 至上の時』の背景にもなっている。
ただ中上はやはり移住のことを考えていたのではと思われるのは、81年には韓国に半年、82年にはアメリカに3ヶ月、単身で滞在しているところで、この時期に『地の果て』が執筆されている。

ただ最終的には83年に新宿のマンションに仕事場を持つことになって、これは中俣氏の論で行けば「中上=新宿系」ということになるか。確かに『日輪の翼』で旅立ちを宣言していた登場人物が新宿に定住してしまっている『讃歌』などは「悪い意味での新宿系」。対して黒人との混血児マウイがセックスとブレイクダンスで六本木をサヴァイヴする『野性の火焔樹』は、ちょっと面白かったり。
確かに、このころの彼は「遊牧化」ということを言っているのだけども、その実質というのは取材と称して出版社の金で各地を回るという程度のものになってしまっていたように推測してしまう。

タラレバで言えばアメリカに住んでしまうのが選択肢として一番、良かったんじゃないかと思うのだけれども…。

もう少し続くかな。