ポスト・ムラカミの中上文学(その一?)

上の件と「早稲田文学」最新号に掲載されている中上の未発表講義「小説を阻害するもの」を読んだと言う事もあって、ちょっと前から考えていた事をメモっておこうということで。

仲俣暁生『ポスト・ムラカミの日本文学』ISBN:4255001618村上以降の差異を強調して、分断し、「以降」を主に語るという戦略をとった評論で、これは中上が両村上に影響を与えていること(『枯木灘』の『コインロッカー・ベイビーズ』への影響。その両者の『羊をめぐる冒険』への影響は明らか)や阿部和重星野智幸などにおける影響を少なく見積もることにもなるとは言え、効果的なパースペクティブだと思う。
ただ逆に、この評論の論点を中上自身に向けてみたら興味深いとも思うわけです。

中上の略歴http://www31.ocn.ne.jp/~nakagami/J/DB/HISTORY/HISTORY.html

まず明らかに中上にも80年代における変化というのがあって、70年代後半に「岬」『枯木灘』『紀州』『鳳仙花』などの達成があって、そこから80年代前半の『千年の愉楽』『地の果て 至上の時』への展開がある。
しかし、特に後者に顕著なんだけれども、ここで中上は困難にぶちあたる、というのは「小説を阻害するもの」や高澤秀次による、その解題ほか色んなところで語られているので参照してもらうとして(ちなみに前者も本来の構想では、もっと長い作品になる予定だったらしい)、注目したいのは仕事量がとてつもなく膨大になっていっているというところ。

それが何故かというのを考えた時に純粋に創作上の理由ではなくて、経済的な理由であるように思えてしまうんですね。
彼は芥川賞作家ではあるし『枯木灘』でも毎日出版文化賞芸術選奨文部大臣賞を受賞しているんだけども、文壇的にグレードが高いと思われる谷崎賞を何度も落選してしまって結局は取れなかった。
当然、賞金ということもあるし、受賞歴というのは原稿料にも影響を与えるはず、また自分自身が賞の選考委員の仕事を貰えるということもあるでしょうし、「売れない純文学」においては文学賞というのはギルドによる保護みたいな機能を果たしていると思うんだけども、その保護がないわけです。
それなら、どうすれば専業作家として生活していけるかといえば、まず著書が売れれば良いわけですが、中上は両村上と比べて売れなかった。
となれば仕事量を増やすしかない、ということになる…と推測してしまうわけです。

物価はどんどん上がっていきますし、中上には家庭もあって子供もいる。しかも毎晩、飲み歩いていたようですし、そうなればそれなりの稼ぎが必要だった。
バッファロー・ソルジャー』(福武書店)に収録されてる85年ごろの質の酷い書きなぐったようなエッセイというか売文を読んでると、そんな感が強くなってしまうわけで。しかも、このエッセイ集自体、大分、後に出版されたもので、「あー、こんな落穂拾いみたいなのを出さないと生活していけなかったのかあ」とか思ってしまうんですね。

えーと、またまた続く。