「ブログ」

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「ブログふたたび」http://member.nifty.ne.jp/windyfield/200305c.html#30_t1
どうにも違和感がある…。それが上手く言い表せないのだけど。谷山浩子は全然聴いたことにないし。斉藤由貴が歌った「MAY」ぐらいしか多い浮かばない。
「それを言っちゃあ」的なことを書けば、風野氏のページは、かなりの数の人に読まれているわけだし、谷山浩子だって、それなりのリスナーがいるはずで、だからこそ「長距離電話」だってかかってくるわけで、本物の[「暗闇」と「孤独」と「沈黙」]には何のコンタクトもないってことになると思うんだよなあ。

大きな声で同意を求めたり、賢しらな顔で意見を述べたり、興味深いニュースにリンクを張ったりしなくていい。別に「世界中で別々の場所で別の日常を生きている人たちの真摯な思考が、少しずつ寄り合わさって、力強い言葉になってい」かなくたっていい。むしろ力強さやジャーナリズムなどとは正反対のところにある、耳を澄まさないと聞き取れないような小さな声で語られる言葉。私にとってウェブとはまずそういう言葉が語られる場所であり、またそうした言葉をこそいとおしいと、私は感じるのですね。そして、そんな小さな囁きにも耳を傾ける人がどこかにいるということ、それこそがウェブの大きな可能性のひとつだったんじゃないか。

という部分には、偽日記(あ、これも日記だ)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.htmlの4月26日のゴダール『ヒア&ゼア/こことよそ』ついての記述、

まさにこのことが、この映画の一つの大きなテーマ、何かを代表しようとする大きな声が、他の無数の声をかき消して聞こえなくしてしまう、だから映画とは、そこで消されてしまった無数の声を再び聞こえるようにするための技術なのだ、というテーマを生んだのだろう。まさに編集中のフィルムや音声の技術的な操作によって、このテーマは発見されたのだ。彼らに代わって、彼らについて語ることは、自己批判について語ることで彼らの声を消してしまった男と同様、大きな声によって無数の声を消すことになってしまう。そうではなくて、無数の声をいくつも交錯させ、聞こえるようにすること。この地点によって、映像と音声についての技術的な問題がそのまま、政治敵な問題へと繋がり、人の生を記録するという問題にも繋がるのだ。

を対応させて考えてみたくもあるけど、余裕ありません。
さてMovable Typeはてなダイアリーは、そういう「技術」なのでしょうか?