レゲエとパンク

昨日の続きと言うか一連の流れで(上の1977年のところにまとめてあります)

R&Bが日本で一般的に認知されるようになったのは68年だというのは定説なようです。それ以前はアメリカン・ポップスの一部として入ってきたり入ってこなかったりというようなかたちで、プレスリービートルズは知ってても、チャック・ベリーとかは良く知らないとか、そういうレベルで日本は出発したわけです。
それが最初のメモの記述の基本にあるわけですが、70年代にそれを単純に適用したのは、ちょっと不味かったかなというのはあります。
ただ、70年代についてレゲエを強調していたのはクラッシュのことが頭にあったからなわけです。
彼らの音楽とレゲエとの結びつきというのは76年のデビュー当時から非常に強いものがあった。でも日本だと、あまり、そういうことが語られないんですね。ジョー・ストラマーが死んだ時、「ロックが詳しいです」って人も「熱血ロッカー」とかそういう形容で。
まあキャラというものはあるかもしれないけど。ただ結局、当時レゲエというものが深く理解されていなくて、それを引きずっているんじゃないか、とも思うわけです。

レゲエ自体が日本で認識され出したのがポール・サイモンが取り入れた72年、有名な話ですけど、まだ日本では「レガエ」って発音表記されてた頃。その後、ジミー・クリフが出演もしてる『ハーダー・ゼイ・カム』の公開が73年。でも、まだまだ端緒で、74年にクラプトンが"I Shot The Sherrif"をカヴァーして、続いて75年に出たボブ・マーリーの"Live"がじわじわと聴かれ始めたという感じだったそうです。
レゲエが本当に盛り上がったのはボブ・マーリーの来日があった79年ごろという話もあり。
78年に『ロッカーズ』というレゲエ映画があって、日本公開は80年だそうで、これの影響を受けたという人も今、レゲエをやっている人は多いですね。
だから、それまではボブ・マーリーは、それなりに知られているけど、というレベルだったような感じだったよう。もちろん先鋭的なミュージシャンとかはアプローチしはじめていましたが「一つの手法」というかたちで。
それを他所にイギリスやアメリカでもレゲエに対するアプローチがパンクとその周辺でドンドン進行して行く。
日本で本格的に表に出てくるのは80年代に入ってからじゃないかと思います。ミュート・ビートとか。だからニュー・ウェーブの時代まで行くと流れがつかめるようになった、俗っぽく言えば「追いついた」のは確かだとは思うんですけど大本のパンクの頃は、本当に最先端の人ぐらいしか、判っていなかったじゃないかと思うんですね。
以上のことを調べていて大いに参考にさせてもらったAkio's Voiceというサイトの「僕の知ってる日本のROCK」(他にも色々と歴史的資料として興味深いことが書いてあります)によると、当時の大人のミュージシャン周辺というのはフュージョン/AOR派、レゲエ/サルサ派(多分、その前はR&B/ソウルを追いかけてたんだけどディスコで詰まらなくなったというのがあるのかも)と分かれていて、パンクに飛びついたのは、もっと若い人たちだったよう。
そういう状況が日本のパンクの需要に影響を与えているんじゃないかと言う部分もあって、ハード・ロック的な観点への偏りというか、単純に過激なロックというような受け止めれ方が中心になってしまっていて、渋谷陽一が悪いのかもしれませんが(笑)。
よく言われるところですけどラモーンズ聴いたらビーチボーイズみたいで拍子抜けしたとか。
結局、歴史自体が日本では浅いわけですから、"ロック"のイディオムを一回チャラにして"ロックンロールの原点"に帰る、それでシンプルな構造に戻った時にレゲエやファンクとか黒人音楽の要素がドンドン入ってくるというような点が見えにくくなってしまっているように思うわけです(まあラモーンズは、そのままの路線なんですが)。
だから影響元にある黒人音楽が後から入ってくるという構造はパンクの時もやっぱりある程度、温存されていたと考えても良いんじゃないかな、と思います。
私が"今"に期待してるのは、もっとダイレクトに受け止めて新しい音楽を生み出していくことなんですね。